細川忠興の家紋一覧(5種)

細川忠興(ほそかわただおき)が使用した家紋を一覧で紹介します。

九曜

九曜紋』は細川氏の家紋。奥州細川家に忠興が養子に入った際に受け継ぐ。父の藤孝は『松毬紋』を使用していた。

細川九曜

細川九曜紋』は肥後細川家の定紋。細川家の独占紋。ただし、この紋の登場は江戸時代中期以降で、忠興は使用していない。

細川桜

細川桜紋』は忠興の家紋の一つ。花が散ることから武家には好まれなかった桜紋を、散ることの美学を見出し使用したものと思われる。忠興の趣きを感じさせる。

五三桐

五三桐』は忠興の父・細川藤孝が室町幕府第13代将軍・足利義輝より拝領した家紋でそれを受け継いだ。肥後細川氏の替紋の1つ。

丸に二つ引き

丸に二つ引き』は忠興の父・細川藤孝が室町幕府第13代将軍・足利義輝より拝領した家紋でそれを受け継いだ。肥後細川氏の替紋の1つ。

細川忠興(1563-1646)

細川忠興は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将、大名。豊前国小倉藩初代藩主。父は細川藤孝(幽斎)。妻は明智光秀の娘ガラシャ。子の忠利は肥後熊本藩初代藩主。

教養人・茶人の細川三斎としても有名で、利休七哲の一人。茶道の三斎流の開祖。

忠興は織田家家臣として活躍後、本能寺の変では岳父の明智光秀からの誘いを断り、信長の喪に服すと、秀吉と誼を通じ、丹後全域の領有を許された。

秀吉死後の関ヶ原の戦いでは東軍に参戦。大いに活躍し、戦後、加増・移封され小倉藩初代藩主となる。元和6年(1620年)に家督を忠利に譲り、自身は隠居。その後、加藤家改易により忠利が肥後国熊本54万石の領主となると八代の地で隠居した。享年83。

忠興は、織田・豊臣・徳川と、時の権力者に仕え活躍、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また、茶人としても名高いが、同時に医療や武具への造詣も非常に深く、「肥後拵」や「越中具足」を確立。また、晩年は陶芸に情熱を注ぎ、高田焼の創始という新たな文化を育んだ。非常に短気な性格で知られているが晩年は丸くなったという。

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