藤堂高虎の家紋一覧(4種)
藤堂高虎(とうどうたかとら)が使用した家紋を一覧で紹介します。
蔦
『蔦紋』は藤堂高虎が使用した家紋のひとつで定紋。
丸に片喰
『丸に片喰紋』は高虎が最初に使用した家紋で「酢漿草」とも書く。『蔦紋』を定紋としてからは裏紋となる。
白餅
『白餅』は高虎が旗指物に用いていた紋。「白餅」は「城持ち」につながることから武将に人気の家紋だった。
藤堂高虎(1556-1630)
藤堂高虎(とうどうたかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将・大名。伊予国今治藩主、後に伊勢国津藩の初代藩主(藤堂家宗家)。また、黒田孝高、加藤清正と並び称される「築城三名人」の一人。
藤堂高虎は、1556年、近江国犬上郡藤堂村に生まれ、幼少期から人並み外れた体格を持ち、身長は6尺2寸(約190cm)を誇る大男だったと伝わる。初めは浅井長政に仕え、主家滅亡後は度々主君を変え、天正4年(1576年)に羽柴秀吉の弟で大恩人と言える羽柴秀長に300石で仕えるようになる。
天正13年(1585年)の紀州征伐に従軍し、戦後1万石の領地を与えられた。天正19年(1591年)には秀長が死去した後、甥で養子の羽柴秀保に仕え、代理として文禄・慶長の役に出征している。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは徳川家康側に与し、戦後、家康から今治城12万石を加増され、合計20万石の大大名となった。
晩年は徳川家康の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げる。寛永7年(1630年)10月5日に江戸の藤堂藩邸にて死去。享年74。
藤堂高虎は、築城技術の名手としてのみならず、政治家としてもその才能を発揮し、藩政の確立に尽力した。外様大名でありながら徳川家康の側近として幕閣に匹敵する実力を持った稀有な武将でもあった。
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